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 総本山善通寺大会陽
  会陽(又はフクバイ)の由来
  宝木(シンギ)について
  はだか祭りとは
  宝木と祝主・福男
  福木(フクボク)について
  稲穂投げ(ホナゲ)
  五重塔縁起(歴史)
 大会陽協賛 力餅競争の由来


 総本山善通寺大会陽
 会陽(又はフクバイ)の由来
『フクバイ』とは、『福奪い』のことで、一年の福を奪い合う行事と言う意味であります。正式には『会陽』といい、真言宗では主要行事の一つになっております。会陽の『会』は会見の『会』の字で、『巡り合う』の意を表し、『陽』は陽春の『陽』で明るく恵み深い春の心をさしております。
つまり『会陽』とは、寒さの厳しい冬を乗り越え光明と幸福に満ちた春に巡り合うということで、その頃に行われる法要が『総本山善通寺大会陽』ということになります。
『フクバイ』は遠く藤原氏の昔に遡り、藤原鎌足公が奈良の興福寺で営んだ維摩会という法要がこの行事のモデルだと言われております。これを基本にして更に脚色を加え観光行事に仕上げたのが、この『はだか祭り』でありまして、その始まりは織田信長が天下に号令していた頃、即ち今から四百年余り前のことであります。
当総本山善通寺では、弘法大師の秘法による除災招福を祈る法要として毎年旧暦正月の20日と21日に執り行っておりましたが、旧暦正月に最も近い2月の土曜・日曜、また、昭和62年からは2月の第4土曜・日曜日に変更され、創始以来発展の一途をたどって、今では欠くことのできない年中行事の一つになっております。
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 宝木(シンギ)について
『フクバイ』の夜、五重大塔から投下される雄雌二本の宝木は『シンギ』と呼ばれ、真言宗最高の秘法によって祈念を込められた福利増進の象徴ともいうべきものであります。『宝木』は、樟、白檀のような薫り高い陽木を長さ15p、直径3pほどの八角形に切り、何種類もの名香で幾日も幾日も焚きしめ、旧暦正月元旦から21日間総本山善通寺法主みずから秘法をこらして加持祈祷せられたもので、外には心を浄めつくす仏法の薫りがたちこめ、内にはその年の災いから逃れ、幸福を招く力と魂が満ちている霊木であります。
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 はだか祭りとは
この『宝木』を裸で奪い合う----これが『フクバイ』又は『はだか祭り』であります。
『フクバイ』に参加する人はすべてサラシの六尺一本のハダカでなければならないのがきまりであります。『はだか』は仏の前に自分を偽らず、ありのままを差し出す正直な姿をかたどったものであり、サラシはその色の示すとおり清浄無垢、潔白な心根を表すためであります。
この天真爛漫な身と心を更に境内の池で浄め、注連を張り廻した柱の中を押しとおることによって、あらゆる罪や災難と闘う力を養います。 これを『水ごり』及び『地押し』といいますが、これは『フクバイ』の開始を示すもので意味深い大切な行事であります。(この『水ごり』及び『地押し』は、近年、池の水が不浄になったため中止されておりましが、『水ごり』及び『地押し』の復活を望む声があり、昨年(平成8年2月実施)より『水ごり』を復活、実施しております。
やがて時刻がくると総本山善通寺大会陽の法会の開始を告げる触れ太鼓が町々に鳴り渡ります。
一つ鳴るのが一番太鼓、二つ鳴るのが二番太鼓、最後に三つ鳴るのが三番太鼓と言われております。
触れ太鼓が鳴り終って五重大塔から待望の『宝木』が、総本山善通寺法主猊下の御手から投下され、いよいよ肉弾相打つ争奪戦が始まりますが、その壮観は到底筆舌に尽くし難いものがあります。
しかし、残念ながら平成15年2月22日(土)が最後の裸男による『フクバイ』となり、現在実施されていません。
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 宝木と祝主・福男
あらゆる秘術と精魂を尽くして奪い取った『宝木』は、以前は、最寄の民家に飛び込み、白米を盛った『一升桝』に差し込まれるとその人のものになり、『宝木』が舞い込んだ家は『福受けの家』と言われ、その家の主人は『祝主』ということになりました。
そして『宝木』を獲得した当の本人即ち『福男』と共に大師の加護を得て息災に過ごし、その幸運を分け合いました。
しかし近年は、境内の特定の場所に『宝木奉安所』を設け、奪った宝木はその場所に納めるようにしてあり、宝木も総本山善通寺へ還納し、宝木を受けてお祭りすることを予め申し出ている『祝主』にお寺から親授するようになっております。
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 福木(フクボク)について
福木は、千数百人の裸男にできるだけ多くの福を授ける意味で、総本山善通寺大会陽委員会ではスポンサ−を募り、『福木』を宝木の投下に先立ち搭上から投下しておりました。副木の起こりは、昭和30年代、市建設業協会の好意で加盟各社が各一本のスポンサ−となり、23本を投下したのがはじまりですが、何年の会陽からかは残念ながら記録が無く定かではありません、ただ、昭和36年に賞金が 1,500円であったのは確かです。
以後、賞金額及びスポンサ−の数が増え、近年は投下数60本、賞金一本1万円となっていましたが、平成6年からは、安全な行事の運営ため投下福木を廃し、会陽出場団体の中で行事の運営に貢献度の高い団体に対して大会陽法要の儀式のひとつ福授式の中で、善通寺のお札の他小皿等の副賞と併せて、授けるようになりました。
福木の大きさは宝木よりやや小さめで、形が六角であります。
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 稲穂投げ(ホナゲ)
稲穂投げを市民は穂投げと呼んで毎年楽しみにしており、1万人近い人が伽藍境内を埋めて、五重大塔から投下される束ねられた千数百本の稲穂と大小の餅を競って拾う行事で、この稲穂を種籾に混ぜて苗にすると豊作間違いなしと言われています。
また、この稲穂を神棚に供えると、家族の一年間の健康がかなうと言われています。
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 五重塔縁起(歴史)
善通寺五重塔は今から1180年前、813年(弘仁4年)に唐から帰った空海が、恩師恵果和尚の住職寺、長安の青龍寺に模して建立されたのが初代であり、善通寺市史によると(出典は「善通寺大塔再興雑記」や徳川時代の善通寺」)過去3度修復され、現在の塔は4代目ですが、それも傷みが激しく平成3年10月から修復工事が始まり、5年10月まで約2年掛って修復されます。
従って、平成4年及び5年のはだか祭りには使用出来ず、南大門を入って正面にある第75番札所「金堂」の西側に仮設される櫓が塔の替わりになり、宝木の争奪も塔の北側ではなく、金堂西側で行われました。

初代  813年(弘仁4年)空海(後の弘法大師)建立
2代  1473年(文明6年)御宇多天皇の院宣賜り素道上人再興
     1558年(永祿元年)長曽我部の乱により全焼
3代  1803年(文化元年)光国・寛充の2僧正完成
     1840年(天保11年)失火により全焼
4代  1884年(明治17年)大師1050年御遠忌に成就(現在の塔)
     厳暁・厳献・旭雅・法遵4代で弘化2年(1844年)から
     1884年(明治17年)まで40年の月日をかけて再建
5代  1991年(平成3年)損傷激しく10月修復着工
     1993年(平成5年)10月落慶法要
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 大会陽協賛 力餅競争の由来
 寺院を訪れる人は、そのご本尊の前にぬかずき、己が胸の内に秘めた 希望(悲願)の成就をひたすら祈ります。
 そうした信仰のメッカとしての寺院には、本堂の前に「力石」と呼ばれる石が配置されていて、「仏」の前でその重い石を持ち上げるという必死の動作を示すことで誠の心を表現すると共に、参拝の記念に自身の力を測定する愉しみを味わっていたものです。
 現在はその名残りを留めておりませんが、総本山善通寺にも「御影堂」の前に、卵形をした重さ50〜60sの「力石」が置かれていたそうです。
 善通寺の伝統行事として受け継がれております「はだかまつり」をより盛大に盛りあげるため「力石」に目をつけたのは戦後の復興期(昭和30年代)のことであります。
 門前に列なる「赤門筋商店街」の世話人を中心として、当時の商工会役職員が近隣の寺院や各地の「力くらべ」競技などを参照して、善通寺の「力餅競争」のスタイルを創造したのでございます。
 この「力餅運び」、仏前に餅を供えるという意味で、重ね餅が採用されたそうでして、当初は「三宝に餅1俵」と言われ、奉持できることに誇りを持ってもらおうという願いを込めて、上下併せて1俵もある純白の鏡餅に汚れ無き身を映しつつ、人生の無事平穏無病息災を祈願して、奉持して頂いておりました。
 然し乍ら、1俵の重量に耐え得る三宝は当然頑丈なものであり、投げられても毀損しにくいものでなければなりませんので、カシ等の堅い材木が選ばれ、この三宝の重さだけで約120sもございます。
 そこで、近年は、重ね餅の重量を軽減し、下鏡餅1斗半上鏡餅1斗合計2,5斗ということに調整されております。
 はだか男による勇壮な宝木争奪戦が男の躍動美とすれば、精神を統一し全神経を集中させて演じる「力餅運び」は日本の国技である相撲にも 通じる心技と申せましょう。
 関係者の努力が実を結び、はだかまつり2日目の行事として定着していましたが、平成11年を最後に現在まで開催しておりませんでした。  平成18年、善通寺創建1200年を記念し、この行事を記念行事として復活し開催することとなりました。
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